森の命を思う
(Photo:シカの死体を食べるツキノワグマ)
森には、たくさんの命があります。
そんな命を思うとき、ボクは森をきれいだ、可愛い、美しい、といったような自然を賛美するだけの見方はしたくありません。
森にある命のすべてが、みんなつながりあっていて意味をもって生きているからです。
そんなつながりのところから、森のもつ意味というものを探ってみたいと思うのです。
森には、植物や樹木、昆虫や野鳥、そして小型から大型までの動物たちがいます。
これらの命には、誕生の数だけ死もあります。
ボクはカメラを通して、動物たちの盛衰を見続けてきましたが、その結果、妊娠期間と同じ時間で、死後土に還っていくことがわかりました。
そこまで見届けていくと、森では誕生と同じくらいに「死」に大きな意味があったのです。
要するに、死を待っている生物たちがいて、死んでくれないと生きていけない生物たちがいたのです。
(Photo:生物の死体が詰まった泥でミネラルを補給するシカ)
(Photo:シカの尿を舐めて元気になるキバネセセリ)
こんなこと、自然を美しいというだけの見方で、賛美していたのでは絶対にわからないことですが、ボクは普通の人たちが見ようとしない動物たちの「死」を見つめることで「生命」とはいったい何なのだろうかと考え続けてきました。
そして「食うために生き、生きることが森を潤し、死ぬことがさらに自然をなめらかに潤滑させる」ということがわかったのです。
(Photo:シカの糞尿を吸うオオマルハナバチ)
例えば植物や樹木たちの緑は、大地からの養分を吸って育ち、若葉は虫や動物たちに食べられます。
その虫を野鳥が食べ、野鳥や動物たちが死ねばそれらをまた動物や野鳥や虫たちが食べて葬送をし、残された骨や糞尿がこれまた大地の栄養分となって循環しています。
そして、春夏秋冬の季節のなかでも、気温や湿度に応じて死体処理係りとして出現してくる生物の出番もきっちり分かれて用意されていたのです。
(Photo:白骨化したカモシカの頭蓋骨)
死体を食べて処理する生物は「スカベンジャー(掃除係)」と言いますが、夏などの高温期には腐敗が急激に進行するので、大急ぎで死体を処理をするハエやシデムシなどが登場してきます。
このように気温が高くて急激に腐敗が進むときは、肉などを食べるテンやタヌキなど肉食動物たちは敬遠をします。
そして季節が動いて涼しくなったり寒くなれば、昆虫たちの活動も鈍り、代わりに肉食動物たちの登場となります。
(Photo:生後まもなく死亡したツキノワグマの赤んぼう)
(Photo:生まれた川に帰ってきて産卵し、死んだカラフトマスをたべるヒグマ)
(Photo:たくさんの自然物をたべたツキノワグマの糞)
(Photo:タヌキは森の代表的スカベンジャー)
こんなふうに動物の死の観察をするだけでも、自然界というところはほんとうにうまくできているのだなぁー、と感心してしまいます。
そして、これらの生物たちがこの地球上にいなかったら私たち人間の暮らしも成り立たないということがわかり、みんなの生命が助け合ってつながりあっていることをつくづく感じてしまいます。
まさに、森は生きている、のです。
そんな「森の命を思う」と題した展覧会が、いま山梨県北杜市の「清里フォトミュージアム」で12月23日までの予定で開催中です。
「森ヲ思フ:ウィン・バロック、志鎌猛、宮崎学の写真」
■会期:2013年7/6(土曜日)~12/23(祝・月曜日)
■開館時間:10:00~18:00(入館は17:30まで)
■休館:火曜日 ただし7/30(火)は開館、8月は無休
K MoPA (清里フォトミュージアム)
ちょうど宮崎駿さんの引退報道が流れた後ですが、「風の谷のナウシカ」に描かれている、森と虫たちの関係に似ていますね。
人間が作り出した猛毒をもった粘菌に対して、虫たちは粘菌を食べることによって、そして食べることができない虫たちは自らの死骸を苗床として(粘菌に食べられることによって)、森へ迎え入れようとしていました。「食べる事」と「食べられる事」が、同じ意味をもっている、そうやって人間が乱した秩序をとりもどそうとしていると。
「生」も「死」も同じ命の異なった形態にすぎないと思います。また、1人きりで存続する命もなく、常に他の命と関わってこそ存在しえるのだと思います。
高知県でヤイロチョウをテーマにしたネイチャーセンターの設置を計画しており、久しぶりに宮崎先生のブログを訪問させていただきました。
あらためて、すばらしい動物写真の作品とエッセイに感動しました。
近いうちに長野県を訪問したいと考えています。
ますますお元気でご活躍ください。 T.