Belove your tools 我が庭の道具
5月20日に郭公が啼いた。
♪カッコー、カッコー。「もう霜はないよ、野菜の苗を植えてもケッコー」。
郭公が、そう歌った。
で、トマトと胡瓜とピーマンと鷹の爪と、それからセロリの苗を定植した。
5月23日は雨催いになった。
天気予報が「明日は雨になる」と伝えた。
野菜苗の定植直後に雨が降れば言うことなし。
夜遅くになって雨が降りはじめた。
寒い朝になった。居間のカーテンを引く。
雪だ! 新緑の木々が雪の重さでしなだれている。
慌てて庭に目をやる。緑の芝生と圃場が、一寸程の雪に埋もれている。
新緑の木々の枝々から、雪解けの滴がぼたぼたと降っている。
菜園のトマトと胡瓜の運命は如何に?
怖くて、庭に下りるのが嫌だった。
紅葉に雪……は、何度か経験した。しかし、新緑に雪は変だ。
村人も、「なんだか怪しいなあ…」と。
言いたくはないんだが、FUKUSIMA の原発事故は不吉だ。
そのせいだとは思いたくないのだが、季節が平安じゃないんだ。
「原発に、賛成か反対か?」という議論に、わたしは与したくない。
賛成か反対かという考えは、いつだって短絡的だ。
議論すべきは、“人類は今、地球が一年間で生産できる総量の二倍を毎年消費している”
という事実をどう考えるかだ。
五千万年かかって自然が蓄積した化石燃料を、束の間の内に使い切ろうとしていることが、ヤバイんだ!
しかし、温暖化問題を原発推進の口実にするのは“騙し”だ。
今進行しつつあるこの地球温暖化の原因が何であるのかは、本当には説明されていない。
今から五千年前は温暖な時代だった。そこいらじゅうが水浸しだった。
その頃、房総半島は“島”だった。海水面が栃木県の南部にまで進出していた。
栃木県に貝塚遺跡があることで、そうだったことがわかる。
わたしの村の天狗山には、日本一標高の高いジョーモニアン(縄文人)の遺跡がある。
今から4,500年前、縄文中期の村だ。そこは、標高1,500メートル以上ある。
八ヶ岳山麓の高冷地は、この頃ジョーモニアンのコスモポリスだった。
そこいらじゅうに街や村があった。
縄文中期の温暖化の理由は何だったんだろうか? 誰か分かり易く説明してくれ。
更新世第三間氷河期に我々は生きているのだが、この間氷河期は温暖化と寒冷化を繰り返している。
この200年間は寒冷な時代だった。
太田道灌が江戸城を築いたときには、銀座は海だった。
江戸城への物資は、目の前にあった東京湾から水路で運ばれていた。
ニューヨーク市のマンハッタンは島だ。
マンハッタンはその昔、青い貝のボタンを欲しがったエリアのインディアンの酋長が、
島とボタンを交換したことで白人の土地となった。
その時、「チィーフ、いくらなんでも損なトレードじゃ御座いませんか?」と、執事が酋長に進言した。
酋長は答えた。「いいんだ。この島はいずれ海に沈むんだから」と。
人の世は、いつだって場当たり的だ。それが、歴史の教えだ。
信じていいのは、薪エネルギーと薪ストーブ!
それから、自給自足的菜園家の庭。
昨日と今日の二日間を費やして、ガーデンツールスのメンテナンスに心を砕き、手を汚した。
グラインダーで道具達の刃先を整えた。
木のハンドルには木工用の桐油を塗った。桐油は番傘に塗られた防水油だ。
鉄の部分には、天ぷら油の廃油を塗った。
吊り紐を、新しい革紐に替えた。そして、こう感じた。
「庭の道具は、なんて美しいんだろう!
芸術なんていらない。高価な調度品や飾り物はなくていい。
使い古してアンティークなそれのようになっているガーデンツールスこそが、高貴だ。
見よ、木と鉄からなるこの造形美を」
庭仕事のための手道具は、興味深い。
わたしの庭には、和洋のそれが渾然一体となってある。
なににつけそうなるのが、日本人の心の広さだ。
欧米のそれには、欧米人ならではの庭への思いがある。
和風なそれには、日本人ならではのシンプリシティーと鍛鉄への執念が宿っている。
庭の道具は、使い込み手入れを繰り返していくことでますますその真価を発揮する。
鍬は、世襲物に勝る物なし。
何十年も使い古していく内に、鍬の刃や爪が滑らかに磨り減って使い勝手がよくなっていく。
土が鍬に纏い付きにくくなっていく。
30年近く菜園家やってる。
気が付けば多くのガーデンツールスが手許にある。
同じ用途の道具であっても、そのデザインが微妙に違う。
例えば、草掻き。英語ではウィーダーと呼ばれる雑草取りのことだ。
自分の手許だけでも、写真の如くこれだけの種類がある。
しかし、これはコレクションじゃない。
菜園家は、これら草掻の違いと個性を楽しみながら、庭仕事をするんだ。
季節を取り違えた雪の被害は、それ程でもなくてよかった。
青葉に向かう季節の庭で、ガーデンツールスのメンテナンスに心を砕いてよかった。
庭の道具の奥深さと、その美しさを再認識することができてよかった。
流木みたいに風化した木のハンドルに桐油を塗りながら、こう思った。
「庭の道具のように、慎ましく無名であることを成熟と考えたい。これでいいのだ!」と。
時を忘れて、自分の道具の手入れに心を砕く時……、
ひとは自分の人生を自分で祝福しているんだ。
Photoes by Yoshio Tabuchi