田渕義雄・薪ストーブエッセイ きみがいなければ生きていけない

信州の山里に暮らす自然派作家がつむぐ薪ストーブをめぐる物語

夏耕冬木、または自由について

飄々(ひょうひょう)として寒風が渡る。
寂寂(せきせき)として更に人無し。
寒山の冬は高地砂漠。
雪は少なく氷が岩を閉ざす。
村の小学校の校庭は冬中アイススケート場に。
村でトップクラスのスピード・スケーターは全日本クラス。
昔アイススケーターだった弘が営む寒山岩根山荘の庭には人工のアイスウォールが聳え立ち、テイク・イット・イージーなアイスクライマーを楽しませている。
ネイチャー・フォトグラファーの皆さん!
氷の写真は如何?
寒山氷的冬景色は今が旬でありんす。

 

 

寒冷地に住む村民にとって、冬をどう暮らすかは重要な社会問題である。
夏にレタスで大儲けした村のファーマーは、
冬中炬燵に突き刺さって夏の疲れを癒している。
では、夏を謳い暮らしたキリギリスはどうしたらいいんだろう?  

タブチさんの場合には、冬はランバージャッキング(樵仕事)と木工。
樵仕事は薪エネルギーの自給自足のためだが、
彼にとっては木工のための木材調達のためでもある。
また、自分で木を伐り、割り乾かし、燃やしてみるということは……
自分が木工を為すエリアの木と自然を理解することである。

素晴らしい家具や工芸品は、
冬が長い高緯度地方や山国や雪国で作られるように思う。
心込めて時間を厭わないで、思うがままに冬を切り冬を削りつづける……。
花も緑もない長い冬。
11月。12月。1月。2月。そして、3月。
神はその細部に宿る。
冬に木工や工芸に勤しむ者は幸いである。

 

 

「自分たちの山で伐った木で家を建てろ」という言葉がこの国にはある。
「半径8マイル(約13km)で伐った木を使うべし」とアメリカでは言う。
木は、家になっても家具になっても、ずっとそこで生きつづけるからだ。
少なくとも日本の家や家具なら、
日本産の木で造るべきだというのがタブチの見識です。
 
「日本の木材はやっぱり島国育ちなんだな」とおもう。
それは、極東温帯アジアの極西太平洋に浮かぶ弧状列島に育った樹木なんです。
アジアモンスーンとシベリアからの冬将軍。
そして、台風。
夏期の亜熱帯並高温多湿と冬期の低温乾燥。
加えて、エリアエリアの多様な気候と風土。

大陸育ちの輸入材は、クセが少なく大らか。
なので、扱いやすい。加工しやすい。
国内材はその逆。
しかし、苦労して仕上げてみれば、
国産のそれはそれぞれに個性的で素晴らしい家具になり椅子になる。
日本の木は、日本人みたいなのではなかろうか?
わたしは日本の木を切り削るのが好きだ。
もっともっと自分の国の木のことが知りたいからだ。

 

 

もしも、自分に薪ストーブと木工趣味がなかったら……。
自分は何をしてこの山の冬を暮らしたんだろうか?
もしもそうなら、絵を描いていたかも知れない。
冬はこの山にはいなかったかも知れない。
そう思わないでもない。
しかし、「もしも……」と思うことは現代人の悪癖である。
そう思うことは、イゾラドにしてみれば信じがたいことであり、病気だ!
イゾラドに“もしも”はない。
イゾラドは、保険産業の敵である。

アマゾンの奥地に住み、
外界との接触を拒絶している少数部族のことを”イゾラド”と呼ぶ。
ブラジル政府の探査フェリが彼ら彼女らの村の上空を飛べば、
弓矢を放って「来るな」と意思表示する。
で、政府もイゾラドには近づかないことにした。
そういうイゾラドの村に住み込み、
30年間布教活動したキリスト教の宣教師がいた。

 

 

 

イゾラドは文字を持たない。
文字を持とうとしない。文字を拒絶する。
文字を持たないイゾラドにIF(もしも)はない。
IFがない人たちに不安はない。
不安がない社会に宗教は必要ない。
で、この宣教師はイゾラドに宣教されてしまって無神論者になった。

IFのない社会には、昨日も明日もない。
あるのは今日だけ。
朝起きて思うこと、それは今日は川に行こうか森に行こうか? ということだけ。
Be Here Now. 今、此処に、在れ。
70年代のインテリヒッピーのスローガンがそうであったように、イゾラドは自由を尊ぶ人たちなのだ。

 

 

イゾラドに親近感を抱いたタブチ君は考えた。
「自由って、どういうことなんだろう?」って。
誰もが自由に生きたいと思っている。
しかし人は、同時に確かさを生きたいと思っている。
昨日も明日も今日のつづきだ。
でも、もしもが有るかも知れないから、もしもに備えて貯金しておこう。
保険を買っておこう。

人は、お金は大切な物だと思っている。
でも、お金は“物”ではない。
お金は、金でもないしダイヤモンドでもない。
それは、ただの債権である。
債権とは、
「財産権の一。特定人(債権者)が他の特定人(債務者)に対して一定の行為(給付)を請求することを内容とする権利」(大字泉)のことである。
銀行に預けたあなたの貯金は債務者たる銀行に対する債権のことでありんす。
債務者が破綻すれば、預金者の権利は誰も保証してくれない。

 

 

そこで、重ねて“自由”について考えてみた。
思うに「自由とは偶然性を尊ぶこと」なのではなかろうか?
哲学学士であるタブチ君は、そう考えた。
偶然を大切に思うということは、
自分の感受性や直感を信じるということだからである。

自由からの逃亡……。
GAFA。グーグル、アマゾン、フェイスブック、アップル。
今あるスマフォ現象は、“風俗”として捉えることができる。
それは、誰もが自由から逃亡したがっている社会現象のことである。
「風俗とは、直近的未来の社会化状況を予見する社会現象として顕在化する」という考えが風俗論の教えだ。
風俗論は、哲学としての社会学の広大なフィールドとしてある。

皆さん、イゾラドの自由生活を思ってみましょう。
自由とは好んで偶然に身を委ねることです。
SNSや検索サイトって何なのかを、皆さん考えてみて下さい。
わたしは、携帯を持ったことのない老人ですが、不自由を感じたことはありません。
旅先にだって、公衆電話はあります。
携帯なければ、携帯料金はフリー。
どうでもいい電話に呼び出されることもなし。

 

 

思うに、真に役立つ情報は情報化され得ない情報です。
それは、自由に生きて汗水ながして自分の筋肉に訴えてしか得ることのできない情報のことです。
そういう情報は、誰もが共有できない。
時に、誤解的に危険を伴うからである。 
不自由の裏側は自由。
不自由の中にこそ自由があります。

薪ストーブは不確かで不自由な暖房器具であり調理器具。
それは、現代文明においては信じられないほどアナログな道具。
だからこそ、薪ストーブには大いなる自由があります。

たかだか死んでいくまでの人生の一日を、今日も木工で暇つぶしできてよかった。
2019年1月大寒

 
Photoes by Yoshio Tabuchi

隔月連載。次回の更新は2019年3月下旬です。

 

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