田渕義雄・薪ストーブエッセイ きみがいなければ生きていけない

信州の山里に暮らす自然派作家がつむぐ薪ストーブをめぐる物語

薪エネルギーと贈与経済

風が雨を吹き飛ばし
色づいた木々の葉を吹き飛ばし
空が明るくなった

どうしてだろう? 我々は風を話題にしない
「今日はいい風が吹いてますね」
という挨拶は聞かない  

「この家は風の音がいいね」
そう言ったのはフランス人だった

「風に向かって口を開けていると
健康が体の中に入ってくるのがわかる」
そう日誌に書いたのはヘンリー・ソローだった

 

 

薪作り大会が終わった。
十数回におよぶこの催しは、我が家にとって最も重要な年中行事だ。

この薪作り大会は、林業的肉体労働の“贈与的経済”としてある。
みんな、有り難う。
経済のあり方には、自給自足経済と消費経済とがある。
自給自足経済下では、カボチャやリンゴは自分で育てて自分で消費する。
消費経済下では自分の時間と能力を労働力として売り、
その対価としての給与を受け取る。
マーケットに行ってそのお金でカボチャとリンゴを買う。
消費経済は面倒臭いな。

 

 

贈与経済という経済のあり方が今、見直されようとしている。
贈与経済は、最も歴史ある人類の経済活動。
縄文人もアマゾン奥地の先住民の経済も贈与経済としてある。
 
物々交換という経済活動も広く行われていた。
わたしの村には日本一標高の高い縄文遺跡がある。
天狗岳という岩山の肩、標高1,500メートルある絶景の地にその村はあった。
そして、数多くの素晴らしい土器を残した。
おもうに、天狗岳の住民は陶芸を専らに為す芸術家集団だった。
近隣に住む仲間が天狗岳に登り、いろんな物と美しい土器を物々交換した。

 

 

贈与経済は、自然に寄り添ってある自給自足経済下で多く為される。
自然はリベラルである。自然は豊かで潔い。
しかし、自然は時に手厳しい。
人々は、分かち合い助け合いながら暮らした。
格差社会とは、贈与経済が欠如した社会のことである。

 

 

薪は自給自足的エネルギーとしてある。
そのコストは、立木と林業的肉体労働のコストとしてある。
林野のない町でのコストは、運送費が加わるから高価なエネルギーとなる。
チエンソーの騒音と腕力と腰にくる重さと、
それからソーダストの埃のなかで、薪作りは為される。
しかし、この肉体労働は嫌な仕事ではない。
そこには、古典的な肉体労働が宿す充足感と不思議な心地よさがある。
これは、誇り高き労働といえる。

 

 

薪エネルギーは、林野に囲まれた山村では贈与経済の賜としてある。
また、薪を作る労働力も贈与経済的だ。
今日本の林野は荒廃している。
除間伐を為しその間伐材をバイオマスエネルギーとして活用しなければならない。
バイオマスエネルギーを主体として、
可燃ゴミをクリーンに焼却しながら発電を為す火力発電所の建設が待たれる。
それは、小規模な発電システムしてあり、地産地消的電力であるべきだろう。
日本の林野は、エネルギーの宝庫だ。

「今ある電力は汚れている」と感じる。
そう思うのは、わししだけではないだろう。
汚れた電力で為される文明もまた汚れているんじゃないだろうか。

 

 

自然からの贈与経済としてある薪は、“高貴”なエネルギーである。
そのエネルギーを電力なしで、見事に燃やすことのできる薪ストーブ!
それは、人類が発明した最高の暖房器具であり調理器具だ。

軽トラとチエンソーと薪ストーブを愛するオッサンのそれを、
エコロジカルで格好いい人生だとおもおう。

 

Photoes by Yoshio Tabuchi
Illustration:田渕義雄 編集訳「薪ストーブの本」(晶文社)より

 

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