田渕義雄・薪ストーブエッセイ きみがいなければ生きていけない

信州の山里に暮らす自然派作家がつむぐ薪ストーブをめぐる物語

Home among the swinging trees 夏を数えて

木々の葉が重たく繁茂して、そよりともしない。
ツリバナの細い枝だけがかすかに揺れている。
深くて重たい緑は、その生長を止めた。
秋を待つ木立。
その樹間からこぼれてくる朝の光が綺麗だ。

陽が高くなってきて、谷風が山に向かって吹きはじめた。
山桜の枝が静かに揺れた。ミズナラと白樺と落葉松の梢も揺れはじめた。
♪ソー・ドード・シドドミ・ソド・ドー……。
樹冠の梢達がシューマンのトロイメライを奏でている。

 

 

村外れの雑木林を切り開いて、木の家を建てた。
それから、四半世紀が過ぎた。
わたし達は爺と婆になった。
まだ若かった木々はみんな立派な高木になった。

ここは、私たちが家を建てる30年程前に薪炭として伐られた林だという。
樹齢50年を超えた木々の生長には目を見張るものがある。
木々はゆっくりと育っていくものだと思われがちだが、そうではない!
高木になった木々は、ものすごい速さで空に向かってその梢を突き出していく。
背伸びしながら、空の青さをその樹冠で掴まえようとする。

家周りの木々を毎冬何本か間引いて薪にしている。
だが、木々はそれ以上に育つ。
屋根の上空には何もないので、木々の枝はそこを目指す。
この冬には、太い木を10本以上伐るつもりだ。
その時には、プロのランバージャッカー(樵さん)に来てもらおうと思っている。
家周りの樹木なので倒し難くなっている。
四半世紀以上も一緒に夏を数えた木々なので、自分では倒しがたいという思いもある。

 

 

6月に、ツリバナの木を伐った。
ツリバナの実は秋になると赤く色づいて、枝先から鈴のように吊り下がる。
だから“吊り花”と云う。
細い枝が涼しげに揺れて風情があるし、その実を小鳥が食べるので好きな落葉樹だ。
実は冬中吊り下がっていて、エナガの群れが毎日巡回してきてその種を啄む。
で、裏庭の木立から10本程の幼木を掘ってきて、家の周りに植えたのだ。

そのツリバナの2本が大きく育ちすぎて薮ぜったくなった(村の言葉で薮っぽいの意)。
樅の木と一緒に伐った。伐られた若木には細枝が柴木のように沢山付いている。
片付けたいのだが片付けようがない。庭に積み重ねて放置しておいた。
葉のある季節に伐られた木は、葉が乾燥していくときに、枝や幹から水分を奪うのですぐに乾く。

8月は、その枝木をハンドアックスで手折って風呂を焚いた。
この家の風呂焚き小屋には長府製作所の“薪&灯油の兼用釜”が導入されている。
煙道はセルキル社の5インチ二重煙突が5メートル。

兼用釜の担当者に我が家の煙道を見せてあげたい。
長府製作所は、今はメジャーなハイテク・ボイラーメーカーとしてある。
「あの兼用釜は、本当はもう作りたくないないのだが、先代の社長の意向で今でも作ってるんだ」。
この会社の広報担当者がそう言ってた。
ローテクな“薪炊き風呂釜”にエール!

 

 

枝木で風呂を沸かすのは、一仕事だといえば一仕事だ。
灯油のバーナーにシフトすればタイマー付きのダイアルで浴室から風呂を沸かすことができる。
しかし、薪炊き釜は焼却釜でもあるのだ。
台所や書斎から出る紙ゴミを焚き付けにして、枝木を焚く。
段ボールもいい焚き付けになる。
簡素に暮らそうと心掛けても、紙ゴミの焚き付けには不自由しない消費社会だ。

薪で沸かした風呂は、灯油で沸かしたそれとは全然違う。
ストーブトップで沸かした湯が美味しいのと同じで、湯が柔らかいのだ!
体の芯まで温まって湯冷めしにくい。
わたしは温泉には興味がない。それよりは、自分の家の薪炊き風呂にゆっくりつかっていたい。

 

 

神様はありとあらゆるものを創った。
それ故に、世界は雑然としていてどうにも調和がとれなかった。
そこで、神様は最後に人間を創った。
世界を片付けさせるために、神様は人間に知恵を授けた。
人は、雑然とした自然を片付けながら、身近な自然を綺麗にレイアウトするために創られた。

いつもはゴチャゴチャになっている自分の部屋を片付けてみれば、そこがうっとりするような空間になる。
すると、長い間捜していた捜し物が、手品みたいにパッと目の前にあったりする。
ノーモアー・デベロップメント。ノーモアー・増築。
これからは、片付けの世紀だ。

便利さという仮面を被ったお邪魔虫がそこいらじゅうにウジャウジャしている。
マーケットに出向くということは、お邪魔虫も買ってくるということだ。
食料と共に持ち帰ったお邪魔虫は消費者のコストであり、それを最終処理しなければ行政のコストでもある。
我々は、二重三重にお邪魔虫に搾取されている。
スーパーマーケットではできる限りの量り売りを望む。

 

 

薪を焚くということは、木々と共に季節を数えながら暮らすことだ。
わたしたちは、木の国の住人としてある。
この列島は森林大国だ。
我が国における1980年代からの薪ストーブ産業の躍進は、知恵ある者達の力強い社会的発展としてある。
日本人は薪ストーブが好きだ。
コンテンポラリーな薪ストーブが、我々のDND に深く刻まれていた本能を目覚めさせたのである。

この家にしてみれば、元々は木だった紙ゴミは、薪を焚くためのファイアースターターとしてある。
であってみれば、紙に印刷される全てのインクは環境に優しいベジタブルインクであって欲しい。
情報産業としての新聞が衰退しようとしている。
当然じゃないか! あなた達は、パルプと呼ばれる木を乱用している。
新聞のそれをベジタブルインクにしなさい。
そうすれば、古新聞は安心安全で便利な包み紙として好んで再利用されるだろう。

環境汚染や環境破壊は想像力の欠如としたある。
我々のショッピングは、無駄なお邪魔虫を仕分けしながらのそれでありたい。
エコロジーという言葉は、広告コピーの飾り文句であってはならない。
エコはギリシャ語に由来する言葉で、“家”という意味だ。
エコロジーは“家庭の経済学”のことであり、“地球という家”の経済学のことだ。

あなたの捜し物はなんですか?
捜し物は身近なところにあるものだ。
もしかして幸せを捜しているんだったら、まずもって自分の家と庭を片付けてみてはどうだろう。

Photoes by Yoshio Tabuchi

 

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