田渕義雄・薪ストーブエッセイ きみがいなければ生きていけない

信州の山里に暮らす自然派作家がつむぐ薪ストーブをめぐる物語

我が庭の寓話

オダマキが咲き始めた。
ラテンネームはAquilegia 。英名はColumbine 。
ロッキーマウンテン・コロンバインはコロラド州の州花。
キンポウゲ科の花。
日本のオダマキは、高山植物であるミヤマオダマキが
江戸時代に庭に植えられて園芸植物になったらしい。
で、ロックガーデンに植えれば小型化して、まるでミヤマオダマキのように咲く。

 

 

桜草のピンクが庭の土手にあふれている。
サクラソウ科サクラソウ属のラテンネームはPrimura 。英名はPrimrose 。
この庭のサクラソウは八ヶ岳の原種。

庭のオダマキもそうだが、花は原種がいいな!
在来種とも言われるが、その土地にずっと昔から在る植物をその土地で育てるのが自然だし、花たちも、元気に栄えつづける。

でも、自分は在来種にしか興味がない山野草家ではない。
外来の植物だって、Why not?
気立てがよくて、綺麗で可愛いフローラ(花、婦人)なら
絶対にWhy not だよね、誰だって。

 

 

だだし、やっぱり原種がいいな。
園芸産業が作り出した品種には興味がない。
そういう花は整形美人みたいで、好きになれない。
わたしは、ほっそりとした一重まぶたの目をもつ婦人が好きです。

花咲く庭は、花たちの国際交流の場であれ。
「わたしはヒマラヤの草原から来たのよ。綺麗でしょ!」
「わたしの故郷はピレネイ山脈の岩山。わたしって可憐でしょ!」
そう言い合って、みんなで咲き競っているのがいい……。

 

 

ウスバシロ蝶が庭を舞ってる。
ゆっくりとはばたいては、ソアリングしながら、夢見るように優雅に……。
パルナシアンが花から花へワルツを踊っている。

薄羽白蝶。Parnassius glacialis 。
パルナッシウスは、北ギリシャの聖なる高山であるパルナッソスに由来する。
ギリシャ神話のアポローンは、この山に住んでいた。
またこの山には、哲学者や魔法使いの大学があった。
グレシアリスは、“氷河期の”という意味。

 

 

パルナシアンは北方系のアゲハチョウ科。
氷河期にシベリアから日本列島に渡ってきた地史の落とし子だが、
山里の周辺を好んでこの地で安らかな旅をつづけている。

この蝶は、子供の頃からのタブチ君のアイドル。
寒山の庭では、6月の蝶といえる。
そして、自分は6月生まれの双子座。
で、わたしのメールアドレスはParnassius 。
この家に家紋が必要なら、この蝶と決めている。

 

 

パルナシアン舞う6月の庭は、アルカディア。
Arkadia は、ペロポネス半島の高原にあり、
高山と峡谷によって下界から隔絶した古代ギリシャの理想郷。
アルカディアへの憧れは、17世紀の芸術や文芸に大きな影響を与えた。

6月の庭に立つタブチ君は、寒山のアルカディアンです。
今、彼の仕事は庭仕事だけ。
来る日来る日を庭に立って、菜園と花壇の手入れに忙しい。
ソーシャルな任務はなし。

 

 
アホノミクスによる株価の乱高下から遠く離れて、わたしに憂いはない。
金があっても心配な日本人。
金が無くても平気なイタリア人とフランス人とタブチ君。
気掛かりがあるとすれば、来年用の薪の丸太がまだ届いていないこと。
それから、6月に降る雹。

タブチが好きな四字熟語は“孤立無援”。
彼は孤立を憂えない。
わたしは、孤独ほど仲のよい友達に会ったことがない。
「誰にも会いに行かない。だから、誰もここに来るな!」。
6月の庭にいれば、そう思う。

 

 

「タブチには思い遣りがない」。
人はそう思っているんだろう。
だが、自分にしてみれば、“絆と思い遣り”という言葉がどうしても好きになれない。「絆とか思い遣りという言葉は、安易に口にすべきものではない」と思うからだ。
そういう言葉をなにかと口にする奴は、
テレビのニュースキャスターみたいに空ゾラしい。
それは、心の奥深くにいつも厳然としてある思いなのであって、
口にすべき言葉ではないんだ。

庭は、限りなく愛を奪う。
「花壇にもっと花を咲かせて下さい。
菜園にトマトとカボチャと牛蒡をもっと、もっと。
メロンとサクランボとリンゴもね……」。
わたしは、庭の奴隷だ。だが、それでいいんだ。
なぜなら庭は、自分を自分で祝福するアルカディアだからだ。
 

 
コヨーテは、独り庭仕事に精を出していた。
何処にも行かない。誰にも会いに行かない。
だから、誰もここに来なくていい……。
そう思いながら、来る日来る日を暮らしていた。
そうしていたら、卓上電話のベルが鳴った。

「ぼくは、カナダのケベックからこの国に来た狐です。
建築の勉強をしている学生なんですが、
社会との折り合いがつかなくてあてどない旅をしてます。
日本で知り合ったロンドンの雌狐と一緒に、
滞在させてもらってよいでしょうか?」。
ケベックの若い狐がそう言った。

 

 

「いいとも。本当は俺も誰かと美しい季節を分かち合いたいと思っていたんだ」。
コヨーテはそう応えた。
「どのくらい居させてもらっていいでしょうか?」。
ケベックの狐が言った。

「庭には誰も利用しないゲストキャビンがあるんだ。
スリーピングバック持って来ればいいよ。
赤いイントレピッドもあって、夜も快適だから
ガールフレンドと居たいだけ居ればいいよ」。
コヨーテはそう応えた。

 

 

「明日が見えない時代だ」。みんながそう言う。
まだ若い人たちには、特にそうかも知れない……と思わないでもない。
しかし、「明日が見えていた時代なんてあったことがあるんだろうか?」と思う。
わたしは、文学部の哲学科の学生だった。
就職の窓口だったらしい学生課がどこにあったのさえ今も知らない。

娑婆と折り合いがつかないことを憂えるな。
きみには今少しモラトリアム(待機期間)が必要なだけだ。
“三年寝太郎”という昔話がある。
三年間なんにもしないで寝てばかりいた太郎が、
ある日がばっと起き上がって村のためによい仕事をしたという逸話だ。

スマートフォンと遊ぶな。
それは、“自由からの逃亡”として捉えることができる。
わたしは、携帯もスマフォも持たない。
“自由”でいたいからだ! 

自由であることは、孤独を伴う。
その孤独を楽しみなさい。
そうしていれば、どこかの孤独な狐かコヨーテがきみに会いに来るだろう。

 

Photoes by Yoshio Tabuchi

 

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