Winter of Woodstove enthusiast 「薪焚き人の冬」
寒い山の冬はロマンチックだ。
きみのことだけを思っていればいい。
冬はきみのこと以外は何も考えられなくなる。
だから、冬は何処へも行かない。誰にも会わない。
冬はずっときみと一緒にいる。冬の寒山は誰もやってこない孤島だ。
孤立無援の砦だ。
なんて素敵なんだろう…春までずっと、きみと二人きりで暮らすなんて。
払うべき税金と村内の買掛金は全て年内に支払った。
ベースメントのパントリー(食料貯蔵室)には1年分の玄米と玄麦を貯蔵した。
南瓜もある。馬齢著もある。
長芋もある。人参もある。
瓶詰めも沢山ある。
小春日和となって時々発火していた夏の残り火も燃え尽きた。
さあー、いよいよ寒山の冬だ。
風を司るアイオロスよ、その袋に詰め込んだ北風を雪と共に解き放せ。
我がアンコールの紫煙よ、イカロスの翼にも似た軽い煙よ。
高く舞い上がり村の空に溶け込んでいけ。
恐れを知らないイントレピッドよ、冬中我が木工室を暖めつづけよ。
薪を焚かない村人は冬をどう暮らしているのだろうか?
熱心な薪焚き人にしてみれば、
薪ストーブが燃えない高冷地の冬など想像することさえできない。
なぜなら冬は、薪ストーブを楽しむためにこそあるからである…。
Be Romantic. ロマンチックであれ。
薪ストーブの側で想う春の夢は無限。
春になったら、忘れな草の花壇を作ろう。
忘れな草のあの瑠璃色が好きだ。
春になったら、ラズベリーを植え替えよう。
ブルーベリーの苗をあと10本買ってきて、ブルーベリーの収穫を五倍にしよう。
新しい畝を起こして馬鈴薯と南瓜を増産したいな。蕎麦も収穫してみたい。
それから、夏になったら久しぶりに旅だな!
スロバキアとモンテネグロの山村を訪ね歩いてみたい。
彼の地の渓流で鱒釣りを楽しみながら、
そこの薪焚き人たちと薪コミュニケーションしたい。
夢の翼に乗って、冬に見る夢は自由自在に羽ばたく。
何しろ冬は薪ストーブと薪のことだけを思っていればそれでいい。
少なくとも冬には芝刈りをしなくてもいい。
菜園の雑草を取らなくてもいい。
しかも、冬に見る夢のコストは只だ! リスクも無し。
春になって叶わないと悟った冬の夢は、綺麗さっぱり忘れてしまえばいいからである。
よく晴れて風の無い冬の日。
気まぐれな海洋性の高気圧がシベリアからの季節風を遮って、いつになく暖かい日。
そんな日には庭の日だまりで薪割りに興じるのが好きだ。
油圧式の薪割りマシーンを購入して以来、薪割りは機械割りが主力になった。
さりとて、斧を振るっての手割りのよさを放棄するわけにはいかない。
薪の手割りには娯楽性がある。
それは、一人遊びのスポーツとしてある。
独り薪を割るリズムとその音には音楽があり、また静けさが宿る。
一方、エンジン音と排気ガスの臭いの中で為す機械割りは、いかにも退屈な仕事だといえる。
どちらも古典的な肉体労働なのだが、そのクォリティーには大きな差がある。
いや、そうではない。それは“差”という程度の違いではない。
その“質”が全く違うのだ。
労働論的に言うなら、それは稼ぐための仕事と楽しみながら為す仕事の違いである。
機械割りは太い玉切りを油圧のパワーで割り裂く。
私のそれは20トンの油圧力を誇る。
だから、どんなに節くれ立った玉切りでも容易く割り裂くことができる。
だが、薪割り機は細割りには向いていない。
直径10センチの玉切りでも50センチのそれでも、同じ時間とガソリンと騒音と排気ガスを必要とする。
小径木は手割りに限る。斧で割った方がずっと手早いし楽しい。
また、機械で太割りしておいた薪を半年程乾燥させてひび割れてきたそれは、手割りで容易く割ることができる。
節のない柾目のそれなら、斧を当てただけでスパッと割れる。
私の場合には毎年10トン以上の薪を割らなくてならない。
ここに来て数年の間はそれを全て手割りしていた。
どうしても割れない木は、芯までそれが凍る真冬を待って楔で割った。
凍った木は割りやすくなる。
まだ若かったし、当時は誰でもがそうしていた。
二十数年前に今あるアメリカ製の強力な薪割り機を隣人と共同購入した。
一瞬にして、薪割りの産業革命が起こった。
得意になって全ての薪を機械割りしつづけた。
そして、斧で割る薪割りの楽しみを忘れた。
しかし、ある冬に機械で割った薪をもっと細割りしなければならない必要に迫られた。
その年は岩魚を釣るに忙しくしていて、薪作りが遅れてしまったのだ。
で、冬になっても薪が生乾きだった。
生乾きの薪でも、それを細割りにすればよく燃えるものだ。
薪割り機を持ち出すのも面倒だったので、割り易そうな薪を選んで斧で手割りすることにした。
そして、薪を斧で割る楽しみを思い出した。
斧で薪を割る音が、静まりかえった雪の庭に木霊していく…。
それは、薪焚き人が自分を自分で祝福している音楽なのだ。
Photos by Y. Tabuchi & M. Umeda