ファイヤーサイドスタッフブログ われら薪焚人(まきたきびと)

中央アルプスの麓、標高800mの大自然より四季折々の話題をお届けします。

2010 Jan. 21

旧田中別荘が薪ストーブのショールームに

先週、2009年に日本人気No1で評価された北軽井沢のキャンプ場
軽井沢スウィートグラス様を訪ねました。

私はもちろんキャンプが大好きな人間です。
できればテントを川や海のそばに張って、落ちた木を集めて、
焚き火をしながら美味しいお酒を飲んだり、
川などでボート遊びをしたり、高い岩から深い天然のプールに飛び込んだりするのが好きです。

だが初めてこんなに遊びの設備を揃えたキャンプ場を見ました。
こんなキャンプ場があったら子供になりたい!
薪ストーブ付きの小屋やツリーハウスやインディアンテントなどに泊まれる!

子供も大人も喜ぶ面白い建物が数々。
五右衛門風呂、バスケット場、イベントホール、
アスレチックコース(木の上のロープコース)やスノーシューコースなどなど。

到着して間もなく、「バナナボートで案内します」とスタッフの福島さん。
大きな黄色いバナナ形の船に乗り、スノーキャットで引っぱり雪の上をあっちこっち。

田中銀之助の旧別荘が
バーモントキャスティングスのショールームに

軽井沢スウィートグラスのアスレチックコースの敷地に田中銀之助の旧別荘があります。
明治時代、田中貴金属の創設者である田中銀之助が
ダンスホール付きの巨大別荘を建築したのが始まりです。

ちなみに田中銀之助は、日本におけるラクビーの父であり、
1899年、慶応義塾大学の塾生に初めてラクビーを教えた人でもあります。
もちろん北軽井沢にもラグビー場が作られました。

これから軽井沢スウィートグラスファイヤーサイドの正規代理店になり、
この別荘を修復して、バーモントキャスティングスのショールームになります。
今年の春から夏にかけてオープンの予定です。


外観の様子


室内の様子。明治時代のクラフトマンのセンスはすばらしい。


石の暖炉もあります。


石の基礎に鋳物のギリル。トリベットのデザインにいかがでしょうか?


二階の様子です。あっちこっちかなり傷んでいます。修復は大変そうです。


屋根も傷みがあり、雨漏りもしています。

田中 銀之助(たなか ぎんのすけ、1873年(明治6年)1月20日 – 1935年(昭和10年)8月27日)は、
明治、大正、昭和の実業家。イギリス・ケンブリッジ大学に留学し、帰国後ラグビーを日本に伝えた。

【来歴・人物】

生糸の相場で儲けた「天下の糸平」こと田中平八の長女と北村菊次郎の間の長男として生まれた。
父は三代目田中平八を名乗り、糸平不動産、田中鉱山を興した。

当時の進学予備校であった神田淡路町の共立学校(現・開成中学)に一時在籍し、
学習院尋常中等科(現・学習院中等科)へ入学。
1887年に留学準備のため横浜のビクトリア・パブリック・スクールに入学。
(ここで後に共にラグビーを日本に伝えるエドワード・ブラムエル・クラークと出会う)

1889年にイギリス留学。
リーズ校を経て、1896年にケンブリッジ大学トリニティ・ホール・カレッジに入学。
1896年6月に法学士の学位を取得後に日本に帰国。
田中銀行の取締役に就任。後に田中鉱業、東洋鉱山、日本製鋼所の役員にも就任。

1899年頃にクラークと共に慶應義塾の塾生にラグビーのルールについて伝えたとされる。
なお、日本ラグビーフットボール協会の初代名誉会長であった。
(会長就任を固辞したために名誉会長となったとされる)

田中平八(たなかへいはち 1834年8月15日(天保5年7月11日) – 1884年(明治17年)6月8日)は、
幕末、明治の実業家。本姓は藤島。幼名は釜吉。名は政春。

現在の長野県駒ヶ根市生まれ(ファイヤーサイドの本社も駒ヶ根市)。
生家は資産家であったが米と綿相場で失敗し没落。
三男であった平八は1846年(弘化3年)頃に現在の飯田市の魚屋に丁稚奉公に出された。
1849年(嘉永2年)頃には魚屋として独立。1853年(嘉永6年)に田中はると結婚し、
田中家の養子となり田中姓を名乗る。
その後、名古屋・伊勢町や大阪・堂島の米相場に手を出すが大損をする。
(日本Wikipediaから)

  • ページの先頭へ

コメント

  1. ツリーハウス・マッシュルームは宿泊できるんですね。
    いいな?。
    子どもの頃見て憧れた南の島のフローネみたい!メルクルー
    ショールームも楽しみです。

薪ストーブエッセイ・森からの便り 新着案内