田渕義雄・薪ストーブエッセイ きみがいなければ生きていけない

信州の山里に暮らす自然派作家がつむぐ薪ストーブをめぐる物語

寒山早春賦

水の音が聞こえる。雨樋から滴する水の音。
そして、懐かしい水の匂い……。
雪止めにしがみついていた雪が溶けているんだ。

凍って張りつめていた大気がほどけて、空気に湿り気が漂っている。
気温はまだ氷点下だが、午後には氷点上に転じるかも知れない。
両手で大きく空を掃き、背伸びしながら深呼吸してみる。
春の気配を吸い込んだ気がした。

二月は、三月から暖かい日を一日も借りなかった。
だから、二月は三月に寒い日を返さなくてもいい。
で、三月はおおむね健やかな早春となるでしょう。
とはいえ、南岸低気圧が甲信越の山沿いに二度、三度、大雪を降らして、
三月はエキサイティングな早春となるかも知れません。
それが、コールドマウンテン・ウェザーステーションからの長期予測。

 

 

「春は三寒四温でやって来る」。
とみんなは言うけど、それは嘘です!
三寒四温は、中国大陸北東部旧満州エリアの四字熟語だ。
四日間乾いて暖かい日がつづいて、
またシベリアから三日間ほど冷たい風が吹いて……。
三寒四温、それは東アジア高緯度地方の平原的早春の有り様なんです。

日本列島の春は、ドラマチックにやって来る。
ユーラシア大陸の極東の果ての断崖絶壁が、
地殻変動で崩れて落ちて太平洋上に浮かんだ弧状の島、
それが日本列島の始まりだ。
我々の祖国は島である。
大陸側から見れば、ユーラシア大陸の崖下、極東太平洋に浮かぶ島だ。
太平洋側から見れば、我々の列島は極西太平洋に浮かぶ島だ。
日本列島の気候は、大陸性気候と海洋性気候がせめぎ合う変化に富んだそれとしてある。

我々は、そういう気候風土の島に住める者達である。
しかし、中国のハルピンに吹く春風と、半島と列島に吹くそれは同じ春風だ。
中国大陸と半島と、そしてこの列島は一衣帯水の地。
我々は、仲良しになりましょう。

 

 

サンルームに置いたフレンチタラゴンが芽吹いた。
アンコールに給薪するそれが半分になった。
夕暮れが遅くなって、六時になっても薪小屋の薪を取りに行けるようになった。
野に森に雪消え残る早春の夕暮れが好きだ。
山脈の山肌がトワイライト・ブルーに染まる。
そんな青い薄暮に白樺の樹皮がその白さを際立たせる。
夜の帳がゆっくりと下りていく。

「早春の庭をめぐりて門を出でず」(虚子)

 

 

二月は、一度だけ村を出た。
安曇野の木工家に気取りした木材を届けた。
その折り、中央道の八ヶ岳サービスエリアで缶コーヒーのジョージアを買った。
シーズンオフの平日のサービスエリア。
ピカピカのレクサスでやって来た男女が、つまらなそうに車から降りてくる。
不倫のそれではない。
いかにも恵まれたリタイアーメントの夫婦といった二人だ。

「これから何処へ行くのよ? わたしはこんな季節には家にいたかったのに……」。
婦人は多分そう言っている。
亭主は黙って見飽きた女房の顔を見ていた。
「夫婦二人きり、高級車で出かけてきたドライブ旅行なんだから、
もっと楽しそうにしてろ……」。わたしはそう思った。

 

 

そのレクサスの横にポンキーなワンボックスカーが停まる。
今時珍しいオンボロ車だ。
そこから、六人の男女が元気そうに飛び出してくる。
楽しそうに何か言葉を交わしながら、弾むような足取りで売店に向かっていく。

「ああー、いいなー。
今時珍しいオンボロ車で乗り合いドライブ旅行している。
そんな若者は、純真な心の持ち主なんだな」。
そう思えて、わたしは彼ら彼女らの後ろ姿を見ていた。
そして、こう考えた。
「倖せってなんなんだろう?
高級車と倖せは相反して、ボロ車は倖せを乗せているんだ」。
と本気でそう思った。
そうであるなら、わたしの古いスバル・レガシーのBスポーツとわたしの倖せ関係は、まあーまあーなものなのかもしれない。
古い車に乗りつづけることを、貧乏とは思わずに成熟と考えよう(笑い)。

「余分なお金は、余計な物しか買うことができない」
  Henry David Thoreau

 

 

春再び。
またの春を待ちながら、わたしは椅子作りに精を出している。
わたしの木工は金儲けのためではない。
わたしは、お金のことはできるだけ考えないことにした。
もともと、金には縁のない自然派の人生だ。
そこでみなさんに、心が晴れる言葉をご紹介しましょう。

「お金のことばかりを考えていると、心が黒くなります」
(ミャンマーの少数民族の格言)

 

 

椅子はアンスロポーセントリック(anthropocentric、人間的)な家具である。
それは、インディヴァイデアルな家具だ。
椅子は、個人的なものであり、人の一生は自分の椅子を探し求める旅でもある。
椅子は、フィジカルな物であり、またメタフィジカル(哲学的)なものでもある。
椅子は、ステータスなシンボルとしてある。
社会的な地位としての椅子は、社会から与えられる物だ。
しかし、自分の椅子を自分で作ったり、自分で捜して手に入れても逮捕されない。

 

 

誰も、タブチに椅子をくれそうになかった。
実家の隣の綿屋のおばさんは、ヨッチャンは個性的な子供だと言ってくれたが、
みんなは協調性に欠ける奴だと思った。
大人になって、ヨシオは椅子を作り始めた。
自分で言うのも気が引けるが、
彼は最初から瀟洒なウィンザーチェアー・メーキングをめざした。
自分の椅子は自分の人生に似て、瀟洒な物であらねばならない。
また、自分の人生は自分が作るウィンザーチェアーに似て、
瀟洒なそれであるよう努めなければならない(笑い)。
自分の椅子を捜している人は、駒ヶ根のファイヤーサイドのズクショップ(phon 0265-82-7366)をお訪ねくださいませ。

人生は思ったよりも長くて、「わたしもう飽きたわー」と思わないでもない。
その一方で、人の一生は夏野行く牡鹿の角の束の間の夢のようにも思える。
その夢のイブニングに、わたしは椅子を作っている。
それが何であれ、人が心を込めて作り上げた物は、
おしなべて今生の置き土産としてあります。

春になったら、思いっ切り時を無駄遣いしたい。
だから、青いシャツを買うつもりだ。
村内の清流にメイフライ(かげろう)が羽化したら、
フライロッドを携えて青いシャツ着て水辺に立つんだ。

 

   

 

Illustrations by 田中靖夫
Photoes by Yoshio Tabuchi

 

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