田渕義雄・薪ストーブエッセイ きみがいなければ生きていけない

信州の山里に暮らす自然派作家がつむぐ薪ストーブをめぐる物語

薪ストーブとギフチョウ

寒い山で暮らす楽しみの一つは、
春がどのようにしてやって来るかを観察する閑暇に恵まれていることである。
「ソメイヨシノの開花前線が東北地方にまで北上」というニュースを聞いても、我が庭の春はまだまだ。
結構な霜が降りて、水仙の花茎が折れてしまった。天水鉢に氷が張った。
「寒山の春は、やっぱり五月の連休が終わってからだな……」。
そう思っていたのだが。あに図らんや。
季節は急転直下、まっしぐらに春へ!

 

 

たちまち、水仙とムスカリの春になった。
ネクタリンのうす紅色の花が満開になった。
杏の蕾は桃色。
谷のオオヤマザクラが八分咲になった。
スモモが満開だ。いい香り。

 

 

魔法的寒山春日。
ボーっと乾いていて、凄く暖かい山の春日。
風のない、よく晴れた四月の下旬。
今、子午線を登りつめようとしている日輪の光芒は暖ったかくて……。

「もしかしたら、ここは極楽? それとも、オレゴンのハイデザートの四月?」。
春日幻想。この暖かさには、魔法が宿っている。
アッケラカンと乾いていて、呆然として暖かくて。
それでいて、少しも暑いということはなくて。
こんな日は、なんにもしないで、お天道様の下にいればいい。
富める者にも、そうでない者にでも、太陽の光芒は分け隔てなく降り注いでいる。

 

 

こんな春の日の午前中に、ギフチョウは羽化する。
十ヶ月におよぶ蛹時代をへて、彼女は今、羽ばたこうとしている。
ヴィーナスの誕生である。
ボッティチェリ(ルネサンス期フィレンチェの画家)が描いた”春”のヴィーナス・アプロディテ。それは、この国の“木花咲耶姫”。
ギフチョウが、アプロディテであり木花咲耶姫だ!
ギフチョウは春の女神。
蝶の愛好家の間では、昔からそう言われている。

蝶が好きな子供だった。
蝶は陽気な生き物だ。
蝶が舞う野原や空き地や庭は、エデンでありアルカディアであり、桃源郷である。

蝶が好む環境と、人が住み易い環境は重なる。
陽当たりがよくて、乾いていて、暖かい土地だ。
そこは、里山の麓の民家の庭先であり、田畑であり、その周辺。
里山の雑木林、人の暮らしと重なるその近辺部の土地が蝶のお気に入りだ。
人が住まない奥山では、蝶の種類もその個体も少ない。
蝶が好む土地が、人が住むべき土地だ。

 

 

戦後、日本の蝶の個体数は激減した。
里山のゴルフ場化は、その土地に深刻な自然破壊をもたらした。
これからのゴルフ場は、元の里山の自然を取り戻していく自然趣味的アウトドアスポーツの場として発展していって欲しい。
桜咲く春、ギフチョウが舞うゴルフ場であれ。

蝶の個体数が少なくなった、もう一つの理由。
それは、里山に人手が入らなくなったからだ。
ギフチョウのように飛翔力が強くない蝶は、その生育環境が局地的で繊細だ。
食草のカンアオイが潤沢に生育し、スミレやレンゲやカタクリの花が咲く土地。
里山のとある明るく開けた雑木林の一角にその土地はある。

 

 

ギフチョウの里に住む者は、幸福者である。
其処は、アプロディテに祝福されている土地だからである。
チェーンソーと薪割り機で里山の手入れして、薪作って、薪ストーブ焚いて、竈も風呂釜も薪焚きで……シンプルで快適なエネルギーの地産地消。
菜園では鶏も飼っててコケコッー。
養蜂も手がけているので、蜜蜂の羽音が聞こえる。
ギフチョウも、そんなきみの暮らしを歓んである。

我々は、難しいことばかり考えている。
ソーラーパネルだとか原発だとか、ロボットだとかロケットだとか。
ソーラーパネルで電気起こして電気を売ったり買ったりするよりは、里山で薪作って、薪エネルギーを活用した方がずっとスマートで経済的だぜ。

 

 

北海道から南西諸島の亜熱帯まで、日本には200種類以上の蝶が棲む。
北米大陸、カナダ、アメリカ合衆国とメキシコとの国境地帯を含めて、蝶の種類は400種あまり。
我々は、蝶の島に住む恵まれた国民である。

人はタダな物には感謝しない。
水と空気と蝶が舞う野原と。
人は失ってみなければ学ぼうとしない。
馬鹿だなー、タダより高い物はないって言うじゃないか。

 

 

他人の価値観で生きようとするな。きみはきみだ。
きみは、独りでいるときが一番素敵だ!
ムスカリの花の前で立ち止まって、「きみはなんて素敵な瑠璃色なんだろう……」。
そう話しかけるとき、きみは自分を自分で祝福しているんだ。
自然は惜しげない。自然は美味しい。
今日もタンポポの花のオムレツを食べた。

 

 

魔法的寒山春日。
四月の終わりの太陽が、じりじりと脳みそを煮詰める。
もっとシンプルであれ。
もっとシンプルに考えろ。
もっとシンプルに振る舞え。
もっとシンプルに生きろ。
寒山春日的日輪の光芒には、悟りが宿っている。

みなさん、こんなボーと乾いて暖かい春日には、なんにもしないで、自分もまたボーとしていましょう。
これでいいのだ! 春なんです。

P.S. 四月から二時間早いサマータイムを実践しています。
毎日、春が花々の旗を押し立てて行進していきます。
毎晩9時に寝床につきます。
きみときみの家族のことを思っています。

 

Photoes & Illustration  Yoshio Tabuchi

隔月連載。次回の更新は6月下旬です。

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