田渕義雄・薪ストーブエッセイ きみがいなければ生きていけない

信州の山里に暮らす自然派作家がつむぐ薪ストーブをめぐる物語

薪ストーブと湯たんぽ

ヒマラヤの山麓をハイキングしてきた人から、
こういう話を聴かせてもらった。

「秋が深まって牧草が枯れると、羊飼いは山の放牧地から羊を里に移動させる。
凍った山道にさしかかると、羊は滑って歩けなくなってしまう。
すると、羊飼いは袋に詰めてきた木灰を凍った路に撒いてやる。
で、羊は難なく山道を下りていくことができる。
タブチさん、薪ストーブの灰のもう一つの有効活用……
それは凍結した道の滑り止めです」。

 

 

東京に積雪があった日、我が寒山は大雪になって、60センチの雪が積もった。
数日後に雨が降った。
で、除雪した後の路面が凍り付いて、恐ろしいことになった。
さっそく、通路にストーブの灰を撒いた。
すると、魔法の杖を一振りしたみたいに、滑らなくなる。

木灰には酸化カルシュウム(CaO)が多く含まれている。
CaOは水と化合して水酸化カルシュウム(CaOH2=消石灰=石灰水)を作る……。もっと知りたい人はPCで検索サイトを呼ばれたし。
当方としては、木灰は塩化カルシュウムよりも強力な滑り止めになることを報告しておきたい。

薪ストーブの灰は、園芸家の期待に応える魔法の灰でもある。
木灰は庭で活用すべきだ。
そうすることで、木を燃やすという自然のサイクルを完結することができる。

 

 

日差しは明るいのだが、日中でも氷点下6〜8度の日々がつづく。
そんな真冬日のなかに、春のような一日が紛れ込む。
温度計は+4度だが、それを日差しのなかに置いてみれば20度以上になった。

雪に反射する陽光が眩しい。
その雪の上に温度計を横たえてみた。
するとどうだろう……赤い柱がなんと26度まで上昇した。
陽光が降り注ぐ雪原の気温は夏日なんだ。

そういえば、思い出した。
真冬の雪山だというのに、シャツ一枚になるほど暖かかったことがあった。
あれは、北アルプスの立山の雪原だった。

 

 

こんな日、我がサンルームの温度は30度以上にもなる。
陽光と雪からの放射熱がサンルームの室内を真夏にしているんだ。

標高1400メートル以上。
我が山里の冬は高地砂漠。
冬はだいたい晴れてて、湿度は20%位。
雪は、溶けないで日中の日差しで蒸発してしまう。
晴れわたっている分、明け方は氷点下20度にまで冷え込む。

だから、冬は夜更かし朝寝坊を決め込んでいる。
サンルームの熱は日中に居間に取り込まれる。
日差しがなくなったら、二重ガラスの引き戸とウールのカーテンを引く。

 

 

そして、アンコールに3Aの楢材をたっぷり給薪する。
火力に勢いがついたところで、コンバスターモードに。
アンコールが軽快なドライブをつづる。
リビングは25度を保ちつづける。

少し遅めの夕食を終え、
ストーブトップで滾っていたケトルの湯で洗い物を済ませる。
ワイヤー製のバスケットに洗い物を入れて、
それをウォーミングシェルフに置いて乾かす。
ウォーミングシェルフに置かれた食器はすぐに乾く。

冬の夜が更けていく。
さて、そろそろ湯たんぽタイムだ! 
寝床から湯たんぽを取り出してくる。
厚いタオル地の袋で二重にくるまれた湯たんぽはまだ生温い。
湯たんぽの栓を外して、二つのそれをストーブトップに置く。
妻は今年、銅製の高級湯たんぽを新調した。
熱伝導がいいのでたちまち湯が沸点に。
わたしのそれは、30年間愛用してきたブリキ製だ。

 

 

湯たんぽは、優れてエコノミカルでエコロジカル!
頭寒足熱。寝室は少しひんやりするぐらいが健康的。
でも、寝床がひんやりするのは嫌です。
足元が冷えるんですよね。明け方は特にね。

で、明け方には湯たんぽを足で足元にたぐり寄せる。
ああ、いいな。足元が暖かくて、いい気持ち。
今しばらく、このまま寝ていよう……。

わたし、思うんです。
これは、自分に言い聞かせていることなんですが、
我々の今の暮らしには無駄が多すぎるって……。
実を言えば、我々は今、十分に恵まれてるんじゃないのかと。
それなのに、もっと、もっと……。
人の欲望にはきりがない。
でも、無理無駄な欲望の果てには、何があるんでしょうか? 

 

 

わたしは経済学の勉強をしたことがない。
そういう本を読みたいとおもったこともない。
日々を生きること自体が経済の勉強でもあると思うからだ。

経済という漢字は、“経国済民”という四字熟語”の略語だ。
経済学者は経国済民学者であり、
経済アナリストは経国済民分析家なんだから、
もっとラジカル(根本的)で哲学的なことを勉強しなさい。

アルファベットのeconomyは、ギリシャ語のoikonomiaに由来する。oikos(家)+nomia(管理)=家の管理=家政学という意味だ。
ecologyは近年になってからの造語だが、
元の意味は家の環境学ということであり、
生態学は自然の経済学として捉えることができる。
そうであれば、経済学は自然の環境学的視野を抜きにして成立しない。

 

 

誰でもが、生活の向上を望んでいる。
そして、自分の収入が増えれば生活は向上すると考えている。
でも、そうはならない。

「だったら、生活に対する態度を向上させてみるしかないんじゃないだろうか?」というのが、わたしの持論だ。
ジョークのように思えるかもしれないが、
少なくともわたしは自分にそう言い聞かせている。
生活の向上は、収入と比例しない。
下品な金持ちの生活がそれを証明している。

わたしは金を稼ぐのが苦手だ。
さりとて、清貧だとかには興味がない。
自分は自分なりに適当に楽に生きたいと願っている凡人だ。
 
寒山の冬を30回数えて、わかったこと。
それは、「1万円多く稼ぐよりも1万円無駄に使わない方が楽に生きていける」ということです。
この真実は個人的な経験値に留まらないのではなかろうか?
生活のコストが高すぎる経済構造や社会には、無理と無駄がありすぎるんだ。
そういう社会に、人々の平安はない。 

 

 

生活に対する態度や意識を向上させていくことで、
生活のコストを低減させていくことが重要だ。
国のGDPは、その国民の幸福と比例しない。
デフレ脱却インフレ促進なんてトンマで時代錯誤な化石的政策だ。
それは、欲張りな金融資本主義者の束の間の夢だ。
 
今は”退行的進化”を目指すときだ。
退行的進化とは、退化とおもわれる現象を、
適応的な意義を持つ進化とみなす生物学用語。
分かり易く言えば、「無駄の物は棄ててしまって、身軽になろう!」とうことです。

もっと具体的に言うなら、薪ストーブ焚いて湯たんぽ沸かして、
冬の夜を幸福に眠ることをコンテンポラリーな“退行的進化”と言います。

 

Photoes by Yoshio Tabuchi

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